青空があった。
 顔を上げて見る空には、雲一つない。
 太陽は眩しく照り輝いていて、直視なんて出来なかった。
 大きく、深呼吸。
 吸って、吐く。
 そして、視線を戻せば。

 あいつが居て。
 向かい風がびゅんと吹いて。
 …目を閉じたくなかったのに。
 風は激しさを増して。
 目を閉じてしまって。
 そして風が止んで。
 恐る恐る目を開けたなら。

 いつだって傍にいたはずのあいつは、もう居なかった。

 そんな夢を見た。
 しばらく、夢の余韻の中で過ごす。
 心が空っぽになったような、そんな想いに捕らわれたままに。
 ぐっ、とシーツを掴む。
 咽喉まで出かかったその名を、飲み込むために。
 ふと気付けば、頬は涙に濡れていた。慌てて目をごしごしと擦る。
 ベッドの上。カーテンの隙間から洩れる朝日。今では見慣れた、この部屋の佇まい。
 真琴との別れから、約一週間。
 別れて初めて過ごす、あいつのいない日曜。
 俺は、役目を果たすことのなかった目覚ましにその旨を通告して、階下へ降りた。

 日曜の水瀬家の朝は穏やかだ。
 キッチンから、コーヒーの香ばしい香りが漂ってくる。秋子さんだろう。
 洗面所で顔を洗って、キッチンに顔を出す。
「おはようございます、祐一さん。日曜なのに早いんですね」
「ええ、なんとなく」
「朝食、食べますか?」
 …食べようか。そう思った。

 だけど。

 俺は、何であんな夢を見てしまったんだろう。そのことが、ずっと引っかかっていた。

 …まだ、気持ちの整理が出来ていない…多分、そういうことなんだろう。
 あいつがいなくなったことは、正直、やりきれないくらい悲しかった。
 でも、俺の周りには…色んな人がいてくれて、支えてくれて。
 俺は、俺でいるために…そう誓ったから。
 もう、立ち止まってなんていられないはずだった。

 だから。

「いえ、今から出かけます。…朝食は、そこで」
 ちらっ、と秋子さんが俺の顔を覗く。
「…そうですか。外は寒いですから、暖かくして行って下さいね」
 そう、こんなふうに案じてくれる人たちがいるからこそ。
 この気持ちに決着をつけたかった、あの場所で。

 外は、雪に覆われて限りなく白かった。昨夜のうちに積もったのだろう。
 だが、今の空にそんな気配は微塵も残っていない。あるのは青空だけだった。
 陽光に照らされ、積もった雪が光輝く様を見ると…こんなのも悪くないな、と思えてく
るから不思議だ。
 つくづく、いい天気だった。それでも、まだ風は冷たくて、じっとしていると凍えそう
だった。
 その冷たい風に身を引き締め、俺は向かった。
 ものみの丘へ。

 木々に囲まれた小道。
 ここに来るのは、もう何度目だろうか?
 そんな事を考えながら、積もった雪で隠れた小道に、どうにかあたりをつけ進んでいく。
雪と落ち葉でいっそう滑り易くなった道に、俺の足跡だけが刻まれる。
 ぎゅっ、ぎゅっ。
 そんな音だけが響く。
 しばらく、何も考えずただ歩く。
 と。
 服の袖を引っ張られる感覚。
 慌てて振り返る。
 まさか――そう、そんなわけはなかった。後ろでは、ただ、木の枝が揺れていた。あれ
に引っかかったんだろう。
 揺れる枝から、かさかさと雪が落ちる。
 服を掴ませて、肩を並べ歩いた、そんな記憶が否応もなく蘇って。
 俺は俯いてきびすを返し、ただ、歩いた。

 長い木々のトンネルを抜ければ、雪に覆われた丘が姿を現す。
 ものみの丘は、白い雪の絨毯に覆われていた。
 銀世界。
 そんな言葉が、似合う気がした。地面の白と、空の青。この世界には、それしかなかっ
たから。
 そして俺は、あの日と同じ場所に立つ。
 ここまで抱えてきた肉まんのぎっしり詰まった袋から、一つだけを取り出す。
 少し足元の雪を払って、袋を地面に置いた。
 手に持った少し冷めたそれを、口に運ぶ。久しぶりの肉まんは、懐かしい、でも食べな
れた、いつもの味だった。

 見上げれば、ただ青い空。
 今朝夢で見たそれと同じ。既視感に、身が震える。
 太陽の眩しさに、思わず手をかざす。
 どこまでも、吸い込まれるように高い空の上で。
 あいつが笑っているような気がして。
 この景色は夢に似すぎていて。
 …怖かった。
 そっと、目を閉じる。
 大きく、冷たい空気を肺一杯に吸い込んで。
 暖かくなった空気を吐き出す。
 空を見上げていた顔を地平に戻し、ゆっくりと目を開ける。
 その、ぼやけた視界の向こうに。

 誰かが居て。
 吹く風が俺を追い越して。
 …怖くて。
 風がもう一度、俺を追い越して。
 涙で視界がまたぼやけて。
 三度目の風が足元を潜り抜けて。
 そして涙を拭ったなら。

 傍から離れたはずのあいつが、目の前で笑っている。

 そんな夢を、見たいと、あの日からずっと思っていた。

 でも。
 悲しい色をした現実の中に――変わらない景色の中に。
 空も、地も――時が過ぎたとさえ感じさせない風景の中に。
 真琴も――そう、あいつのいない日常の中に。
 今、俺がいるとしても。
 そんな夢想に頼ることなんて、馬鹿馬鹿しいことに思えた。

 だって、その夢がいつか現実になるのを見るために、今ここに居るのだから。

 だから、信じつづける。強く、強く、想いの全てで。
 そして、想い出せる。真琴の何もかもを、いつだって。顔も。声も。言葉も。温もりも。
 他愛の無い会話も、じゃれあいも、俺と真琴で…離さない。忘れない。
 そう、誓って。硬く拳を握り締めて。
 青空の中に、叫ぶ。

「またな、真琴っ!!」

(終)


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